2015/07/16

日本が自衛軍を持つならば

学生時代、ESSのディベートマッチに参加したことがある。ディベートとは討論の意味で、一つの課題について、賛成か反対で論じ合うこと。これを英語でやる。このディベートの訓練は後に役に立ったと思う。欧米では政策論争に用いられる手法だし、日本を含め国際的に、法廷での争いはディベートに拠っている。ディベートで勝てるということは、利益を生むことだ。

そのディベートマッチのテーマの一つに「自衛隊は憲法9条に反し違憲である」が取り上げられ、勉強することになった。ディベートに勝つためには、両方の勉強をしなければならない。合憲で勝てる勉強、違憲で勝てる勉強、の両方だ。

ディベートには法的あるいは論的根拠も大切だが、もっと大きな要因もある。訴求力のある論理を展開できることだ。まぁ、この自衛隊をテーマにした主催者側の意図からしても、自衛隊はグレーゾーンだから、ディベートとして盛り上がれるだろうというのもあっただろう。

ところが、私は勉強していくうちに、どうしても自衛隊は違憲であるという思いを強くしてしまい、合憲側の対策を考えにくいようになってしまった。合憲側の論理は現状を取り繕うための詭弁にしか過ぎないのではないか?という疑問が強まったのだ。

この疑問は今も持ち続けている。確かに、憲法は自衛権まで放棄するとは明記していない。しかし、自衛隊の現実的な装備、組織、予算云々はまさに軍隊に等しい。しかもこの自衛隊はそもそもがアメリカの要請によって作られた、外交上の妥協の産物であることは歴史が示す通り。今回の安保関連法案も、これの二番煎じの観が否めない。

では、だからと言って、日本が自衛の軍備を持つべきではない、とは思っていない。国家は排他的な統治機構を持つことにより存立するものであるから、その排他的な統治を実現する手段を有しなければならない。事実上それは軍備だ。暴力・強制装置と換言してもいい。しかし、人類は現代に至っても、その暴力・強制装置以外に排他的な統治を実現する手段を生み出してはいない。法治国家による最終的な強制力も所詮(暴)力による。暴がつくかつかないかは、ほとんど「正義」を名乗る主観の違いにしか過ぎない。

だから、本来なら、きちっと自衛隊は改憲して日本の軍隊として位置付けるべきだろうとは思う。どう考えても現状は違憲なのだから。さらに今の政府は、そもそも違憲なものに、さらに違憲の上塗りをしようとしている。

ということで、失望される人も多いかも知れないが、私は自衛軍を持つための改憲にはやぶさかではない。ただし、条件がある。私は政府というものを信頼していない。政府は強大な権力を持つ排他的な組織であり、一国民に牙をむくこともあるものだと思っている。だから、主権在民の国家であれば、国民は常に政府を監視し、厳しく批判しなければならない。そうでなければ、国家権力の横暴が始まるからだ。これは日本ではなかなか定着していない考えだろうけれど、欧米ではごく当たり前の民主主義の基本だ。

その民主主義の基本に立って、日本が自衛軍を持つならば、
1.シビリアンコントロールの徹底。
2.国連主義に立つ、専守防衛の徹底。
3.平和維持活動等の可否は個別に国民投票を必要とし、その任に当たっては自衛軍より別組織を設ける。
4.自衛軍は交戦時の一時的な措置を除いて、原則的に自国の領土、領海、領空を越えて、訓練以外の軍事行動を行わない制限。

などの条件が担保されるべきだと考える。
これ、スイスを見習っているのだけどね。あちらの国では徴兵制があるけれど、ぎっちり武装中立で縛られている。日本は日米同盟を破棄出来ないだろうから、せめて専守防衛などの縛りはあるべきだ。自衛軍は自衛以外の戦闘に加担してはいけない。

なんか、これも理想論になりつつあるけど、とりあえず意思表示だけはしておこう。