2010/03/31

アッダの谷は深い

またここはアッダ川の源流域。その谷の深さは、ヨーロッパアルプスの険しさを物語っている。

ヴァルテリーナを下りる

あのヴァルテッリーナワインを産する穏やかな谷間ではまだまだ遠い。ここはイタリアアルプスの世界。

2010/03/29

官尊民卑の日本語

馬廻り役からどんどん興味がわいて調べていったのだが、江戸時代の人口が2千5百万から3千万人で、その7%が支配層の武士だったとのこと。人口にして200万人前後、あるいは弱といったところか。これらを職業軍人と捉えると、結構な軍事国家だったともいえそうだ。農民の比率は84%、商工の比率があわせて6%。

武士の中でも、幕府直轄の武士は「直参」で、他の大名の家来などは「陪臣」と呼ばれた。陪臣ってなんだろうと思ったら、要するに家来の家来だそうだ。大名が将軍の家来なのだから、家来の家来となる。陪には従うとか、家来と言う意味がある。

武士の階級も複雑で、大名の重臣などにも家来がいたから、こういった人は家来の家来の家来だ。家来の家来の家来の家来までいたかどうかはわからない。笑

ところで、陪審員という制度が最近日本で取り入れられている。陪は従うとか、家来という意味があるのだから、これは審、すなわち裁判所の家来という意味にも受け取れなくはない。従って不適切な言葉の様に思える。国民には主権があるという立場からすれば、裁判への参加も主権の行使のうちだろう。裁判所の格下に陪審員がいるということではない。

陪審員、昔の官尊民卑の風潮からこうした言葉が生み出されたのだろう。気がつくと、この様な不適切と思える言葉は他にもある。例えば、国会に国民の意見を直接届ける制度「国会請願」がそれだ。これなどは国会に「請い願う」制度になっている。官職のない国民は国会に請い願う事しか出来ない。なかなか差別的な、お上に民をへつらわせるような名称だ。

どうして「国民提案」とかの名称にしないのか疑問に思う。よらしむべし、しらしむべからず。日本はまだその域を漂流しているのかも知れない。

江戸っ子ってもともと大阪商人やんけっ!

馬廻り役という武士の役職があって、何だと思って調べたら、現代の軍階級でいう下級士官なんだそうだ。馬に乗る事を許された武士。下級とはいえ、馬に乗れる武士は上級武士(上士)のうちに入っていた。上の下といったところ。

下士官は「徒士目付」で、徒士とか足軽とかが一兵卒。時代劇で出て来る同心という人達と同類項。東京の御徒町って、この徒士の町だったようだ。すなわち下級武士の住んだ町。同心の人達が住んだのが八丁堀という所だったそうで、御徒町は八丁堀とまあまあ近い。いわゆる下町エリアの中、なかなかうなずける。

武士にも上士、下士があってこの差は歴然としていたそうだ。今でも軍隊では、士官と兵卒では雲泥の差がある。軍隊は階級社会だし、こうした江戸時代からの封建社会の序列を受け継いでいても不思議ではない。

江戸時代、圧倒的に多かったのが下級武士。いわゆる一兵卒。例えば江戸時代の幕府直轄の武士、すなわち直参を8万騎と称していたそうだが、そのうち、士官に相当する武士の数はわずか5千。あとは下級武士だった。この人たちの年収は低かった。 映画「たそがれ清兵衛」でも主人公、苦労している。

武士がそんなだから、武士階級の下の農民に至っては、それは悲惨な状況だったろうと思ったら、どうやら違うらしい。年貢は四公六民といわれ、4割もっていかれたと公式にはなっているが、この根拠となる算定が江戸時代初期などに行われたもので、江戸時代の実際の税率は28%程度だったとか。農民の暮らしは時代劇の様な過酷なものでもなかったらしい。下級武士と農民とは同じような経済的状況にあったようだ。

因みに、士農工商の階級の工商には年貢がなかった。当時は農本制だったし、この階級の人口がとるに足らなかったというのもあるのだろ。しかし江戸文化などは町民文化と言われるし、そんな彼らが基本的に無税だったというのは大変興味深い。江戸は、タックスヘブンだった。なんか世界の最先端を行っている。

江戸と言うのは当時、世界的にも大都市だったそうだ。その人口の多くが、実は江戸初期に 都市整備の一環として主に畿内、特に堺、大坂の商工業者が幕府により強制的に移住させられたことによっている。江戸っ子って、もともと大阪商人やんけっ!

そしてこれを端緒として、その後全国各地から江戸へと移り住む住人が 急増して世界でも屈指の大都市へと変貌して行ったのだそうだ。江戸は移住者の町だったのね。

江戸っ子という言葉が出来たのは、そうした移住者がおよそ200年程の年月の中で、保守層を形成していき、経済的問題から江戸に来る、貧困層の新しい移民を蔑むようになってからだそうだ。彼らは江戸っ子にとって野暮だった。今でも東京で成功すると、例え上京して来た人でも、新しい上京者を田舎もんと笑ったりするから、この江戸時代からの伝統は変わっていない。

さらには文明開化となり、東京と改称した江戸に薩長の田舎者が大挙してやってきた。ここに至ってはこれに対抗して、もともといた江戸の町民と旗本、御家人らが合流し、守旧派による江戸文化の確立がなされたのだそうだ。

官憲がよく言う言葉に「おい、こらっ」があるけれど、これは薩摩方言でもともと「ちょっと、君」くらいなもんだったそうだ。方言も時として、東京で悪役となる。

立ち退き命令が来た!

10月31日までに立ち退けという手紙が不動産屋から来た。
今年1月からスイスに戻って、色々な事があったけれど、大抵がトラブルの連続で、その最たるものがこれだ。泣ける。ちゃんと家賃払っているのに・・・・。
なんでも、アパートの建て替えをするらしい。それで、このアパートの住人全員に立ち退きの手紙が出されてしまった。スイスでは、貸す方の立場が強いから、居住権などを盾にも争えない。
引っ越すのも大変だが、引っ越す費用も・・・・・・・・・・。
これから引っ越し先を探さねば・・・・・。はぁぁぁぁ。

2010/03/28

電子書籍「私の移住記2」が発刊

お知らせです

電子書籍「私の移住記2」が発刊されました。
これは、私のメルマガをまとめたものですが、若干オリジナルに修正を加え、体裁を整えています。メルマガの読者の皆様にも楽しめるものとなっていると思います。

この書籍では、私がスイスに移住して、どたばたしている様が描かれています。決して日本では体験できなかったどたばたの数々、スイスに来て実感した事、感動した事、驚いた事、泣いた事、笑った事などなど、色々なエピソードが満載です。

また、ぽかぽか地球家族に出た際の裏話なども織り込んでいます。私の調べたスイス、スイスの歴史、スイスワインなども紹介しています。スイスに留まらず、ドイツ、フランス、イタリアも出て来ます。この書籍が、スイスやヨーロッパを舞台とした、愉快なひと時を提供出来たら幸いです。

是非、ご購読の程をお願い致します。
この書籍のご購入は、

http://swiss.wonderful.to/magf/ijuki2.html

からお願い致します。

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ほんの少し、内容をご紹介
http://swiss.wonderful.to/magf/ijuki2-sample.html

・テレビに出た ぽかぽか地球家族の収録

 なるほどと思った。もう番組の内容は彼の頭の中にあるのだ。シナリオは大方出来ていて、私たちはそのシナリオに沿って実演すればいい。実際普段やっていることなので、確かにやらせではない。しかし、自然な立ち振る舞いが物語になって行く、という訳でもない。演技までは行かないけれど、それに近い仕事なんだと思った。

 撮影が終わる頃、ディレクターがお礼に私たち家族を食事に招待したいとの事だったので、近くのレストランに行く事にした。色々とテレビの仕事の事とか、カメラマンの仕事の事とか聞く事が出来て楽しかった。外国の仕事となると、何日も家を空けなくてはならず、大変だと思った。色々とストレスもあって、出社拒否症になったとか、本当に大変そうだ。カメラマンの人は、撮影期間中、携帯で写真を撮っては、それを日本の奥様に送っていた。彼こそ、「ぽかぽか地球家族」だと思った。

2010/03/27

平和な国境

こんな国境を見ていると、国とは何かと思ってしまう。国とは人が勝手に決めた線に過ぎず、そもそもそんなものは存在していなかったものだ。いつか、こんな平和な国境の様に、国境線なんて杭一つの意味にしかならない事を願いたい。

非常にわかりやすい国境線

国境線に杭が打ってあった。笑

2010/03/25

ステルヴィオ峠から見た、ウンブライル峠

写真中央に二つの家の集まりが見えるが、左側の家々がイタリアの国境検問所で、右側がスイスの検問所。その真ん中がウンブライル峠。峠の真上にある山がウンブライル山で同じく国境となっている。山の最高地点は3033m。写真を撮っている地点も、ほぼ国境線上。要するに、国境線がこの写真の中央を貫通しているということ。

峠にて記念撮影

今回は車だが、次回は自転車でと密かに誓う。パッソ・デッロ・ステルヴィオ。ボルミオ郡に属しているようだ。

2010/03/24

ソルダの谷・縦

いかにこの谷の深いことか・・・

ソルダの谷

ステルヴィオ峠を反対側に下りる谷。この道が見事な山岳道路。

ステルヴィオ峠(標高2758m)

ヨーロッパで車の通れる峠としては一番高い。乗鞍スカイライン(最高地点2710m)より48mほど高い。笑
6月から10月まで通行可能となっている。夏場は賑わう観光地。

ヴァルテリーナの始まり

イタリアワイン好きの人には名が知れている「ヴァルテリーナ」。この偉大な谷はステルヴィオ峠から始まる。また、ここがコモ湖に注がれるアッダ川水系の源流だ。この山塊のはるか向こうに、あの素晴らしいリゾート地コモ湖がある。

2010/03/23

のりさんの、私のスイス、ヨーロッパ(114)

 8月6日、晴れ。5時半起床、朝方ブルノの町を散策。8時半にプラハへ向けて出発。ブルノはかつてモラビア地方が王国であったころ首都だった。そんな事もあり、大きな大聖堂やお城がある。市庁舎前のドミニカン広場では朝市が立っていた。町の外れには生物の遺伝学に大きく貢献したメンデルの住んだ修道院がある。彼は生物学者であり、聖職者であった。モラビア王国は一時、ポーランド、ハンガリーへ勢力を拡大したが、後にボヘミアに取り込まれて行った。

 ボヘミアはオーストリア、ポーランド、ハンガリーに勢力を拡大し、その首都プラハは中欧の3大都市の一つとまでになる。しかし、ハプスブルグ家との争いに敗れ、徐々に所領を失い、紆余曲折の後、ハプスブルグ家の所領となってしまう。ボヘミア王はスラブ人であったため、ドイツ人貴族達から支持されず、最終的にドイツ人貴族に支配されることになった。チェコ人はドイツ人支配の下で農奴的な存在に貶められた。

 ボヘミア、モラビアの地域からなるチェコはスラブ系民族の国なのだが、そのチェコを長らく支配したのはドイツ人だった。そのためチェコはドイツの影響が色濃い。今でもドイツ語の名前が銀行や商店などにつけられている。チェコを最後に支配したドイツ人は、ヒトラーだ。第二次大戦後はソ連の衛星国となり、東欧に組み込まれたが、冷戦崩壊と共に民主化が進み、現在はEU加盟国となっている。チェコは東欧の国から中欧の国に分類される事になった。ポーランドも同時期にEU加盟をしていて、両国は同じくシェンゲン協定にも加盟している。よって、ドイツ、オーストリー、チェコ、ポーランドの行き来の際には全くパスポートのチェックはない。

 プラハには10時半に到着した。ブルノからは約200キロの距離。旧市街の駐車場は高いので、ちょっと離れた所のパーキングメータを利用する。駅前の駐車場が1時間50コルナで、町外れのパーキングメータは1時間15コルナ。3倍以上の開きがある。

 プラハはチェコの首都のみならず、中欧を代表する都市だ。プラハを賞賛して「ヨーロッパの魔法の都」、「黄金の町」、「北のローマ」などと称されている。旧東欧ということで、あまり期待はしていなかったのだが、その美しさにびっくりした。プラハはヨーロッパ屈指の美しさを持つ町だと思った。

 旧市街広場にある旧市庁舎塔には天文時計というのがあって、からくり時計になっている。毎時ちょっきりになると、動き始めるので、その時刻になるとすごい人だかりになる。で、私も観客の一人となったのだが・・・、そりゃ当時はすごかったに違いないのだが・・・、単に人形が移動するくらいのもので、正直期待はずれだった。こういからくり時計がヨーロッパの都市にはいくつかあって、ベルンにもあるのだが、今まで見た全てが期待はずれのものだった。初めて見たからくり時計が有楽町のマリオン前だったのがいけなかったらしい。あれが基準になってしまった。

 カレル橋というプラハ最古の橋を渡ると、プラハ城に通じる。プラハ城はプラハの看板名所だ。プラハ城の門には衛兵が立っている。城の一部が大統領府にもなっているのだそうだ。プラハ城の偉容を整えたのはカレル4世の治世の時、14世紀だ。カレル橋もカレル4世が作らせている。彼はプラハの町を発展させ、自身が神聖ローマ皇帝まで登り詰めた。チェコ人に敬愛されている王だ。しかし、彼はルクセンブルク家、すなわちドイツ貴族の出自を持っている。

 ルクセンブルク家は神聖ローマ帝国の有力諸侯であり、政略結婚によってボヘミアの王位を得ていた。ヨーロッパ貴族は政略結婚によってこの様な王位継承を行っており、色々なところで血のつながりを持っている。因みに、この貴族間の政略結婚で最も成功したのがハプスブルグ家だ。もとは現在のスイスの一角に城を持つ小領主に過ぎなかったのが、後に代々神聖ローマ皇帝を継承する名門貴族にのし上がった。16世紀以降、第一次大戦まで長期にわたりボヘミアを支配したのもハプスブルグ家だ。

 プラハ城を順路に則って見学していくと最後にマーネス橋のほとりに出る。この橋を渡って対岸の左側にはユダヤ人の旧ゲットーが広がっている。ユダヤ人はチェコでも差別されており、この様なゲットーでの生活を強いられた。今でこそ壁はないが、この地域にはユダヤ教の教会であるシナゴーグが多い。中欧には沢山のユダヤ人がいて、この様なユダヤ人地区も多く残されている。中欧を旅すると、ユダヤ人差別という暗い歴史にも触れる事が出来る。

 プラハ市内見学を終えて、次にプルゼ二(Plzen)という町に向かった。ドイツ語だとピルゼン(Pilsen)。この町が有名なのは、ビールのピルスナーの発祥の地だということ。ビール好きなら一度は訪れてみたいところ。何せ日本のビールのほとんどがピルスナー・スタイルだということだから、日本のビールのルーツみたいな所だ。

 プルゼニには異様にでかい教会の大聖堂とヨーロッパ一の規模を誇るシナゴーグがあって、それぞれ名所になっている。といっても町に宗教色は感じられない。チェコの人口の4割は無宗教なんだそうで、これは共産党支配の時の密告制度の影響によるものだという。逆に宗教色が薄い素地があるから、色々な宗教の教会も残存できるのかも知れない。お互いに争うこともないから。

 しかし、私のお目当てはプルゼニのビール工場、プルゼニュスキー・プラズドロイ醸造所。ドイツ名をピルスナー・ウルクヴェル。本家本元のビールメーカーであり、またチェコの有名ブランドでもある。ここの工場にはレストランもあって夜遅くまで営業している。当然、ここに行くしかない。

 共和国広場の教会脇にあるツーリスト・インフォでホテルを紹介してもらったら、なんと無料で紹介してくれた。対応も親切だったし、やはりチェコの田舎町だと、こういう親切に出会えるのだと感心をした。紹介してくれたホテルが4つ星なのだが、値段が799コルナ(約4500円)と星の数に比べると格安。半信半疑ではあったが、そこはビール工場から最も近かったので決定した。名前はアストロイ(Astroy)。4つ星ホテルだけあって、設備は大変良かった。今回の旅行の中で最も質の高いホテルだったが、最も安いホテルだった。

 プラズドロイ醸造所に近づくと、何やらロック・ミュージックが聞こえてきた。今日は無料ライブのある日だったのだ。沢山のチェコ人がやって来ていて、ピルスナー・ビールを飲みながら音楽を楽しんでいた。なにせタダがうれしい。ビールは500mlのジョッキが38コルナだった。1杯200円そこそこの値段である。レストランでこの値段でビールが飲めるというのは夢のようだ。

 今日は天気も良くて、絶好のビール日和だったので、美味しい本家ピルスナー・ビールを飲めて幸せだった。本当は地元の料理と合わせてビールを楽しもうと思っていたのだけれど、音楽を聴きながら2リットルも飲んでしまって、食べたのは地元の赤いジューシーなソーセージだけ。でもこれはビールには良くあった。ま、これも地元料理の一種である。B級グルメだ。

 演奏は休憩を挟んだりして10時過ぎまで続いた。だんだん観客も乗って来たが、観客総立ちまでとは行かなかった。チェコ人、意外に慎ましやかなようだ。本日の走行距離336キロ。プラハからプルゼニまでは113キロくらい。高速は全て無料だった。

 なお後で知ったが、チェコの高速道路は本当は有料で、何日間か有効の高速乗り放題券を郵便局やガソリンスタンドで購入し、そのステッカーをフロントガラスに貼っておかなければならないとの事。数百円のものらしい。スイスに似た方式を取っている。スイスに入る外国からの車は国境でステッカーを買うことが出来るが、チェコにはそういう所を見なかった。かなり緩い感じで、外国からの車は実質無料ではないかと思う。因みに有料ステッカー式の国は、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリアなど。

2010/03/22

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ウンブライル峠(2503m)

ここを過ぎるとイタリアに入る。国境の峠だ。

ウンブライル峠のアプローチ

スイス側からステルヴィオ峠にアプローチする場合、スイスで一番高い峠、ウンブライル峠を経由する。標高2503m。4000m級のアルプスを擁するスイスにしては、車の通れる峠道の標高は意外に低い。因みに、日本で車で行ける最高地点は乗鞍スカイラインで、2710mまで行ける。スイスより高い。しかし、一般車は通行出来ない。

2010/03/21

ステルヴィオ峠の建物

ステルヴィオ峠はイタリアにあるのだが、この峠の北稜線がスイスとイタリアの国境になっている。写真で言うと、写真の左半分がスイスで、右半分がイタリア。

ステルヴィオ峠が見えてきた

標高2000地点を越えると、ステルヴィオ峠(標高2757m)が見えてくる。ステルヴィオ峠は、車が通れる峠としてはヨーロッパで一番高い。

2010/03/19

大西洋産クロマグロの禁輸案が否決されたのは歓迎

クロマグロ:禁輸案を委員会が否決 ワシントン条約会議、とのニュースが駆け巡っている。
日本政府が国際的な劣勢を巻き返したらしい。
二つの意味で、これには歓迎したい。

一つは、管理漁業の進展に対して日本がイニシアティブを取れ、かつ国際的に受け入れられた事。
もう一つは、この様な外交的成果を達成できた、日本の外交能力の向上だ。

私は大学時代海洋学部という、海洋を専門とす学部で、特に水産に関わる勉強をしてきた。最終的には魚病、特に魚類の免疫に関しての研究をした。その過程の中で、当然水産資源に関する勉強もしたのだが、もう20年以上も前から管理漁業の重要性は認識されており、資源を守りながら、あるいは育てながら水産業を発展させる、そうした努力を関係者は地道に行っていたと思っている。

今回のワシントン条約の成果は、そうした地道な努力に下支えされたと思いたい。また、日頃反目だけが目立つ、中国や韓国の協力も見逃せない。水産業に関し、東アジアの協力体制が確立されつつあるのだとすれば、これは他の分野に先駆けて素晴らしい実績を残せたものと思える。

環境保護も大切だが、水産資源は人類の経済活動に貢献する。また単なる保護だけでなく、資源的な活用も視野に入れた管理体制を世界的な協力の元に確立していった方がよほど有益である。何故なら、それは密猟や乱獲も防止できるからだ。

反捕鯨でとかく目立つシーシェパードなどの過激環境団体の台頭も防止されよう。環境団体の活動も大切だと思うが、少なくとも経済活動との連携もあって然るべきで、過激環境団体はそこからかけ離れている。

また、とかく外交能力に疑問符がつけられる日本にとって、この成果は大きいと思う。しかしその反面、イニシアティブを発揮できた業績に等しい国際的な責任も今後負っていかなければならない。私はそんな観点から、最近目にしたこんなマグロに関するサイトを評価したい。
http://www.maguro-jp.com/

日本は管理漁業をもっと発展させつつ、消費者も生産者と並んで自制していかなければならない。

もっとも、クロマグロの様な高級魚が私の口に入る事は、めったにないのだが・・・・。泣

2010/03/18

サンタ・マリアはほぼイタリア国境

厳密に言うと、その隣にミュスタイルという村があって、ここが国境。イタリア側に入ると、谷の名前がヴァッレ・モナステロに変わる。なお、ドイツ語名もあって、ミュンスタータルという。ヴァル・ミュスタイル(ロマンシュ語名)は、なんか、イタリア語とドイツ語の中間的な感じ。日本語に訳すと「大聖堂谷」。国境に大きな聖ヨハン修道院がある。

サンタ・マリア・ヴァル・ミュスタイル

オフェン峠(2149m)を越え、暫く走ると、えらい長い名前の村に着く。ここは標高2503mのスイスで一番高い峠、ウンブライル峠のゲートビレッジ。この谷の名前がヴァル・ミュスタイルというので、ミュスタイル谷のサンタ・マリアとなるだろうから、住んでいる人はきっとサンタ・マリアと呼んでいることだろう。写真の奥がオフェン峠で、山の反対側が国立公園。しかし、どうみても、ここも国立公園。

2010/03/17

私のスイス、ヨーロッパ(113)クラクフ、アウシュビッツ、ブルノ

(113)
 8月5日、晴れ。午前6時半起床。7時に朝食を取り、早速旧市街散策に出発。クラクフは歴史のある町で、昔はポーランド王国の首都として栄えたのだそうだ。その頃は、ボヘミアのプラハ、オーストリアのウィーンと並ぶ中央ヨーロッパの文化の中心地だったとの事。

 王の住んだヴァヴェル城はとても広くて荘厳だった。旧市街の中央市場広場は中世から続く広場の規模としてはヨーロッパ最大とのこと。また、旧市街の家並みは中世の雰囲気を今も漂わせている。ヤギェウォ大学は中欧のカレル大学(プラハ)に次ぐ歴史を持ち、コペルニクスが学んでいる。また前法王ヨハネ・パウロ2世の母校でもある。この町が昔ながらの姿を止めているのは、第二次大戦の戦禍から奇跡的にも免れたからだ。しかし、皮肉にもドイツ軍の司令部がここに置かれていたから免れることが出来たのだとか。

 いずれにしても、この歴史的な町が残されたのは素晴らしい。クラクフは日本で言えば京都に値するポーランドの古都だ。世界遺産にも登録されている。訪れる価値は十分にある。また、ドイツ軍の司令部があったことから、もう一つ負の遺産がここにはあって、その負の遺産を訪ねるのも、過去の悲劇を忘れないためにも価値がある。それはクラクフから西に80キロ離れた所に設けられた「アウシュビッツ絶滅収容所」だ。

 ポーランドを侵略したドイツはクラクフにゲットーを設け、ポーランド中のユダヤ人を集め、その狭いゲットーに隔離した。その後ゲットーからも追い出し、クラクフ郊外に強制収容所を設け、働けるものはそこに入れ強制労働させた。老人、障害者、婦女子はアウシュビッツに送られ、殺された。このクラクフとその強制収容所を舞台に、1100名のユダヤ人の命を救った実話「シンドラーのリスト」が生まれたのだ。クラクフの収容所は強制労働を目的とした収容所だったので、ここでの大量虐殺はなかったが、囚人の虐殺は日常で、ユダヤ人の囚人は常に死と隣り合わせだったのだそうだ。

 アウシュビッツという名前はドイツがポーランドを侵略した後につけた、ドイツ語の地名で、現在アウシュビッツという所はポーランドにはない。今はそこにあった絶滅収容所(英語ではDeath Camp)の名前にそれが止められているだけだ。アウシュビッツ絶滅収容所はオシフェンチムという町にある。

 アウシュビッツという名前をポーランドの地図で探しても、なかなか探し出せないのはそこら辺に原因がある。また、このオシフェンチムという名前もポーランド語で綴りが「Oswiecim」なので、ローマ字的な感覚で発音から探そうとしてもなかなか出来るものではない。これはクラクフにも言えて、「Krakow」という綴りからは、なかなかクラクフと読めない。私はこれで、クラクフ探しにずいぶん時間を取った。

 オシフィエンチムは小さな町だ。アウシュビッツ絶滅収容所はこの町の重要な観光収入源になっているかの様だ。現在この収容所はアウシュビッツ博物館となっていて、実質的に33ズオチの入場料を取られる。アウシュビッツ博物館は個人訪問者の場合、必ず案内ツアーに参加しなくてはならなくなっていて、その費用に33ズオチがかかるのだ。このツアーは約2キロ離れた第二収容所の見学も併せて3時間ほどかかる。よって、アウシュビッツ博物館に午後3時までに行かなければ、博物館に入場できない様になっているから注意が必要だ(2009年8月現在、Webによると8−9月の間に多数訪れる入館者への臨時対策とのこと)。

 案内ツアーだが、残念ながら日本語がない。日本語のツアーが欲しければ、別途ガイドを雇う必要がある。私のような気ままな日本人訪問者には英語のツアーしか選択出来ないのが残念な所だ。英語がわかればまだしも、それも難儀な場合、この33ズオチは無意味に痛い。因みに駐車料金は1時間3ズオチだった。どうも観光地料金で駐車料をぶんどっている。といっても、1時間100円の駐車料金が日本で高いとはいえないけれど。

 アウシュビッツをインターネットで調べれば、沢山の情報が出てくる。だからアウシュビッツ絶滅収容所の解説はそちらにお任せしたい。行ってみて、初めて実感するものがあるので、それを綴ってみたい。このアウシュビッツ絶滅収容所では、150万人が虐殺されたと推定されている。しかし、その数がどんなものなのかは容易に想像できない。最盛期には1日に何千人もの囚人が殺された。そんなに殺し続ける事が出来るのか、あまりに想像を絶するので、こうした数字だけでは単なる数値が頭を通過するだけだ。

 実際に見学した、膨大な頭髪、靴、鞄などを見て、少し気分が悪くなった。囚人から刈り取った髪の毛で織物を作り、ドイツ軍の軍服などに利用していたんだそうだ。収容所に送る際、気休めに名前や住所を書かせた鞄は二度と持ち主に返されることはなかった。藁を敷いた蚤だらけのベット。ガス室で殺されるのならまだしも、餓死させられたり、立たせ続けて死に至らしめるという「立殺し」などの酷い処刑も行われていた。彼らは家畜以下の存在だった。

 アウシュビッツ第二収容所はビルケナウと呼ばれていた。実はここが大量虐殺の本拠地で、映画などで紹介されるアウシュビッツはここの事をいっている。ここは広大だ。当時は300ものバラックが建てられて、1棟に400人位押し込められたそうだ。ざっと計算しても1万2千人は収容出来る事になっている。死の門と呼ばれる収容所の入り口から入った囚人は、二度とそこから出ることは出来なかった。

 当時ヨーロッパには約9百万人のユダヤ人がいた。このユダヤ人を収容するのに、たった1万人そこそこの収容所が何の役に立つだろう。とにかく送られて来る囚人を迅速に殺し続けなければ収容所はパンクしてしまう。そこで殺人ガスを使った大量殺戮方法が開発されたのだった。アウシュビッツに送られた囚人達の7−8割は、列車から降ろされてすぐにガス室に送られた。そのため、これら囚人の記録もない。記録を取っている余裕もなく殺し続けたのだ。よって正確な処刑者の数も把握出来なくて、150万人というのは推定でしかない。

 ある人口調査によると、第二次大戦を通してユダヤ人の人口が500万人強減っている。ユダヤ人協会の見解では550万人以上が戦争の犠牲になったと主張している。これはアウシュビッツだけではない数だが、戦争を通して殺されたユダヤ人の数としては妥当な所かも知れない。

 死の門をくぐってユダヤ人を満載にした家畜用の貨車が到着すると、追い立てられるように奥に伸びた線路の終端まで歩かされる。そして線路の終端の先には、ガス室があった。こうして死んだ人はまだ幸いだったかも知れない。なまじ労働に耐えられる体をしていると、バラックに送られ強制労働に従事されられる。働かせながら殺すのだ。人間の基礎代謝にも満たないカロリーしか与えられず、骨と皮になり、動けなくなったらガス室送り。その間早くて2ヶ月、半年持てば長い方だという。こちらの方が酷い。

 私が見学している間、複数のユダヤ人の見学グループを見た。イスラエルの国旗を持っていた。イスラエルの国旗は、ナチスから強制的につけさせられたユダヤ人差別の紋章と同じだ。イスラエルの学生達は修学旅行でアウシュビッツを訪れるのだそうだ。同胞がこの様な仕打ちを受けた所で、彼らは何を思うのだろう。

 ヒトラーは狂気の人だった。そう片づけるのは簡単すぎる。ユダヤ人を迫害したのはヒトラーが初めてではない。確かにヒトラーの虐殺がユダヤ人迫害の頂点であったのは否めない。しかし、その素地をヨーロッパはずっと暖め続けていたのだ。このユダヤ人虐殺の悲劇は、ある日突然起きた類のものではない。ヨーロッパでユダヤ人は差別され、社会の最下層に押し込められていた。スイスでも教えられているが、近世に至るまで差別された最下層には二つがあって、ユダヤ人と死刑執行吏だという。ヨーロッパ人の心の片隅には、異教徒たるユダヤ人に対する憎しみや蔑みがあった。私は今でも、それもスイスでその片鱗を垣間見ることがある。

 こうしたことは規模の大小の差こそあれ、ドイツに限った事ではない。日本でも関東大震災の時に在日朝鮮人が差別感情から生まれたデマが発端となって虐殺された。どこでも起こりうる話しなのだ。しっかりとこうした差別と虐殺の歴史を受け止め、伝えて行かなければ、明日、自分たちが被害者に、あるいは加害者になっている、そんなことが現実にありうるのだ。アウシュビッツは遠い物語ではない。人の心の中にはアウシュビッツが隠れ潜んでいる。

 とても遠かったけれど、アウシュビッツを見学出来て良かったと思った。最近、ユダヤ人虐殺などなかったという歴史修正主義者の声を聞くが、行けば実感できる。それは間違いなくあったのだ。それを圧倒的なスケールで物語っている。アウシュビッツは二度と繰り返してはならない、そして教訓に満ちた場所だ。

 流石に見学を終えると気が重い。もう家に帰って寝たい気分になった。しかし、オシフィエンチムに泊まる気も起きなかった。オシフィエンチムから80キロほど南下すると、そこはチェコ国境だ。なるべくプラハの近くまで走っておきたかった。結局チェコに入り、ブルノというチェコ第二の都市まで走った。チェコは西部のボヘミヤと東部のモラビアという地方に分けられるが、ブルノはモラビア地方の中心都市だ。

 ブルノ市街の中心地にホテルを見つけた。アヴィオン(Avion)というホテルで、朝食付き900コルナだった。ただしシャワーがついているが、トイレが共同。1コルナは約5.5円、よってここも1泊5000円程の宿だった。夜は自家製ビールが売りのレストラン・ペガス(Pegas)でビールを楽しんだ。1杯が28コルナ。1杯150円ちょっとで飲める計算になる。ビールが安い! なお、ペガスも宿泊ができる。

 ほろ酔い加減でブルノ市街を夜の散歩としゃれ込んだ。落ち着いた雰囲気があってなかなかいい。しかも治安もいい。ブルノの町が気に入った。駅前のお店でチェコ産のワインを買う。帰って飲むのが楽しみだ。オシフィエンチムからブルノまでは280キロ程で、その間ポーランドの一部とチェコでは高速を走った。料金はかからなかった。今日の走行距離364キロ。

燧ケ岳?

山の標高は3000m級なので、山のほうはスイスが勝ち。涙

2010/03/15

スイスの国立公園

大きな高層湿原が広がっていた。

スイスにただ一箇所ある国立公園

といっても、スイス自体がひとつの国立公園の様な気もするが・・・。ちなみにこの公園、ひとつしかないから名前が「国立公園」。もうひとつ、イタリア国境にあって、イタリア側は「ステルヴィオ国立公園」になっている。イタリアには国立公園が沢山あるようだ。

2010/03/14

またスイスに戻ります

ポーランド、チェコ、ドイツ、フランスと駆け巡った写真旅行が終わりました。またスイスの写真旅行に戻ります。日本に帰国した際の写真も集まっていますので、これも織り交ぜて紹介したいと思います。

先週スイスは寒波に見舞われ、大変寒い日々が続きました。私の家の周りも雪景色に戻りました。しかし、昨日から徐々に寒さが緩み、今日は小春日和の陽気で、春の訪れを予感しています。まだクロッカスも芽を出していませんが・・・。今年の冬は、冬らしい冬でした。厳しい冬を過ごすと、それだけ春の感動も素晴らしいものになるだろうと期待しています。

ここ10年で、世界的に雀の数が減少しているそうで、その原因が特定されていないんだそうです。何やら不気味ですね。雀インフルエンザでも流行っているのでしょうか。インフルエンザといえば、豚インフルエンザ、世界的に大騒ぎして、世界的な空振りに終わった。そうなるだろうとは思っていたのですが、これで儲けたのは製薬会社ですね。スイスもしっかりと絡んでいます。

ノイシュタッドの家々

森の中に家が佇んでいる。森と共に生活があるような町だ。

2010/03/12

ノイシュタッド・シュヴァルツヴァルド

シュヴァルツヴァルドの森に沈む小さな町。

シュヴァルツヴァルドの森

もみの木が密生するこの森は、緑が濃く時には黒く映る。そんな所からシュヴァルツヴァルドの名前がついたそうだ。

2010/03/11

あれれ?川はどこへ??

しかもこの泉、わき出たあとまた地下に流れ出ている。か、川はどこじゃぁっ!
ちなみにこの泉はブリガッハ川につながるのだそうだ。ドナウ川はシュヴァルツヴァルド(黒い森)に源泉を持つというと聞こえがいいが、何か源流域としての雰囲気に欠けなくもない。
ドナウ川の支流に、スイスから流れ込むイン川というのがあるが、この川の方が源流気分たっぷりだ、氷河をも抱える標高4000m級の山々から下る水が源流となるのだから。

これがその「ドナウの泉」

こんこんとわき出る泉がドナウ川の源泉。源流というと山間部にちょろちょろ流れる沢みたいなものを想像してしまうが、全然違う。

2010/03/10

一般的なドナウ川の源流

はこの美しい記念碑のある所。「ドナウの泉」と書いてある。これはドナウエシンゲンの町中にある。

ドナウ川の生まれる所

ちょっと見づらいが、写真中央と左の2つの川が合流して、右に流れ出る所からドナウ川となる。写真中央がブリガッハ川、左がブレク川。ブレク川が本流とされ、ドナウ川の地理学的な源流はブレク川の先にある「ブレクの泉」とされている。これは地理学上の源流のお話。

2010/03/09

ドナウエシンゲン・ドナウ川の源流

この看板がドナウ川となっての最初の看板。シュヴァルツヴァルド地域にある。

大聖堂の広場

市が立っていたが悪天候で残念。なかなかユニークな建物もある。

2010/03/07

城門近くは比較的古い

お店に荷物を運ぶための車が入り込んでいる。この位は仕方がないだろう。

フライブルグの大聖堂

ヨーロッパ一の美しい塔を持つという触れ込みなのだが、どうも・・・・・。

2010/03/04

町中はトラムと歩行者と自転車

古い家並みが残されているという感じではないが、落ち着いた雰囲気がある。

フライブルグの塔

旧市街へ入るにはこの様なかつての城壁に設けられた塔をくぐる。この塔がなかなか美しい。旧市街の中は車が入れない。フライブルグは環境政策を積極的に推し進めている町として知られている。バーデンワインの主産地カイザーシュツールからも近い。

2010/03/03

フライブルグ、ドイツ・シュヴァーベン地方

ツェーリング公が開いた町。このツェーリング公はスイス方面にも勢力を伸ばし、ベルン州やフリブール州を支配していた。これらの州都であるベルンやフリブールもツェーリング公によって開かれた。シュヴァーベン地方もスイスと密接な関係があるが、両者で戦争をしたりもしている。
フライブルグはシュヴァルツヴァルドの縁に位置する町でもある。ここから東はもうシュヴァルツヴァルド。

遊覧船もモダン

ちょっとモダンすぎて古い町並みと不釣り合いな気がする。外見だけでもレトロ調にすればいいのに・・・。

2010/03/02

ストラスブールのトラム

今まで中欧で見てきたようなものではなく、結構モダンな作りだ。

昔ながらの家々

どことなくゆがんでたりするのだが、作られたときからそうだったのか、長い年月によってそうなってしまったのか。木造でも地震がないから長い年月に耐えられるのだろう。

2010/03/01

ストラスブールのレストラン

ストラスブールのレストラン
よく見るとWinstubと書いてある。ワイン居酒屋だ。アルザス語だが、ドイツ語のWeinstubeに近い。ワインはもちろんアルザスワインだ。

ボランジェ発見

でもここのボランジェはシャンパンの店ではない。もしかしたら、ここではドイツ語風にボリンゲァと言うかも知れないが。木組みの家でもイギリスのテューダー風と趣が全然違う。コロンバージュと言われるこの様式の方が装飾性がある。