2009/08/25

私のスイス、ヨーロッパ(108)

(108)
7月19日、ロンドン曇り、ラゴス曇り
 オイスターカードに残金があったので、地下鉄でヒースロー空港に向かった。これが一番安い方法だが、一番時間のかかる方法でもある。でも、東京から成田に行くよりは全然早い。地下鉄といっても途中で地上に上がる。出国を済ませ、いよいよナイジェリアに飛ぶ。フライト中機内で飲めるだけワインを飲んだ。ナイジェリアではワインも飲めないだろうと思った。これは確かに正解だった。

 ナイジェリアのラゴス空港に着く前、入国カードと税関カードを渡された。これに必要事項を記入して提出しなくてはいけないとのこと。ナイジェリアに行くにはビザも必要だったので、かなり厳しいと感じた。そのビザを取るのにも、黄熱病の予防接種を受けたり、大変だった。

 飛行機を降りると、むっとした熱さが伝わってきた。流石に赤道に近い国だ。空港は撮影禁止になっているので写真を撮ることが出来ない。ナイジェリアでは人の写真を撮るのにも承諾が必要だったり、公的な場所は基本的に撮影禁止だったり、写真撮影の制限が厳しい。

 入国審査に人が沢山並んでいた。何故なのか理解に苦しむのだが、入国審査に3カ所まわる必要があった。何をしているのか皆目見当もつかない。とにかくその3カ所でチェックを受けてようやく入国が許可された。その割には何故か税関検査を受けなかった。手元に税関カードが残った。

 荷物を引き取り、空港のロビーを出ると、そこにネスレの職員が待っていた。彼は私をすぐに日本人だと察したらしく、手を振って合図をした。そして空港の脇で送迎車を待つ事になった。ところが送迎車がなかなかやって来ない。すごい渋滞になっていたのだ。車道には車線が引かれていないから、車は隙あらばどこでも入り込む。中には整備不良でものすごい煙を上げる車もある。こんな調子だから、渋滞となると手がつけられない。暑い上に、排気ガスで臭い、クラクションがそこかしこで鳴りっぱなし。まるでカオスだ。

 送迎車には運転手と警察官が乗り込んでいた。ネスレ専属の警察官なんだそうだ。こういうシステムにも理解に苦しむ。とにかく車に乗り込み、工場内にあるゲストハウスに向かった。辺りはもう真っ暗だった。ラゴスは午後7時半で暗くなった。スイスと2時間の日没の差があった。

 空港を出て、ゲートらしき所を通過すると、闇両替商みたいな人々が、ナイジェリアの札束を沢山持って立っていた。私は基本的にここでお金を使う必要がなく、両替をしなかったのでレートなどは一切わからなかった。仮に両替しても、ナイジェリアの通貨ナイラはドルやユーロなどに逆換金出来ないとの事。一度両替したら使い切らなければならない。ナイジェリア以外でナイラは紙くずとなる。

 空港を離れると、街路灯は一切なくなった。交通量が沢山あるので、沢山の車のヘッドライトで道路は明るい。それに至る所で渋滞がある。そんな時、道の脇を見ると、掘っ立て小屋の様なお店が並んでいるのが見える。何かを売っている。しかし暗くてよくわからない。電気がないのだ。掘っ立て小屋の唯一の明かりはランプの灯火だ。家々をよく見ると明かりがついていない。電気が来ていない。

 道の渋滞がすごい。ラゴスの人口は1500万人とも言われ、すごい過密状態だ。人々が仕事を求めて都会にやってくる。しかし都市のインフラがそれに追いついていない。道の広さは2車線分あるのだが、時々穴が開いている。車線にラインがないから、我先にとすいた所に車が突っ込んでくる。もっとちゃんと整備してあればこんな渋滞にはならないはずだが、そうしたインフラの悪さが余計に渋滞を悪化させている。

 車もすごいのがある。30キロか40キロしか出ない、しかもモクモクと煙を噴き上げる車が大手を振って走っている。バスは扉を開けたまま走り、乗り切れない人がその扉につかまりながら半身を車から出している。まるで暴走族のハコ乗りのバス編だ。渋滞中に後続の車が送迎車に追突してきた。運転手が飛び出る。後ろを確認して、大したキズになっていない事がわかると何もなかったように走り出した。きっとこの様な衝突は日常茶飯事なのだろう。

 車はちょっとしたことでクラクションを鳴らす。だからプープー、プープーとてもうるさい。どういう運転マナーなんだろうと全く驚いてしまう。ナイジェリアの運転手は、クラクションを鳴らすのが好きらしい。後から思うと、クラクションを鳴らして自己の存在を知らせなくては、衝突されてしまう危険があるからだろう。

 時々送迎車は閑静な住宅街の様な所を通る。そんな所の入り口には必ず警備員がいる。運転手はこの警備員に幾ばくかのお金を渡して、その道を通してもらう。理由を聞いたら、近道だという。

 渋滞する所は、人通りの多い所で、いつも掘っ立て小屋が沢山あった。多分村か町になっているのだろう。車がのろのろと動いている所では、必ず何か食べ物を持った人が売りにやってくる。夜ではパンを沢山見たが、昼は飲み物が多かった。

 まるで映画でアフリカの悲惨を見ているようだった。私がその現実の中にいるということがウソのように思えた。きっとこれは幻なんだと。日本の戦後のどさくさの時がこんな感じだったのだろうか。しかし、ここまでのカオスはなかったろうと思う。

 私には、このナイジェリアの現実に入っていく勇気がない。そこはマラリアや食中毒の危険があり、貧困と、電気もない前時代的な生活と、無知と、暴力と、犯罪に脅える社会。いや、そんなネガティブな事ばかりではないのだろうけれど、それでも今目の当たりにしている現実、送迎車の窓の外側の世界には、自分から入って行く勇気がない、好奇心もわかない。

 私はラゴスに着いた初日に、工場と工場内のゲストハウスから一歩も外に出ないと決めた。ネスレも工場外への外出は推奨していなかったが、ネスレの工場という守られた世界から、一歩も外へ出たいと思うことはなかった。

 無事ゲストハウスに到着すると、私分のパスタが置いてあった。空港からゲストハウスまで約3時間かかり、夜の9時をまわっていたので、まかないのコックさんはもう帰っていた。自分の部屋には電気があり、冷房が完備されており、バス・トイレもきちんとしていた。もうそれだけで、ここが別天地の様に感じた。

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