今年の4月に、今のままでは夏場を含め今後仕事の確保が困難となる事がわかり、現在の工場からの撤退を決断した。借りていた工場の契約で、解約の6ヶ月前に通知する必要があった。4月に解約を申し出ても10月まで家賃を払い続けなければならない。これも交渉して1ヶ月縮めてもらい、9月末での解約にしてもらった。
夏場は日本人旅行客の弁当が主な仕事だった。今年は新型インフルエンザや不況の影響で、この需要が激減してしまった。また冬場、2月から5月の4ヶ月間はいつも仕事の少ない時期なので、これを見越すと早いうちに撤退を決める必要があった。振り返ると、4月は自分にとって精神的に大変不安定な月だった。
工場を解約して、新たにお店を出す案と状況が好転するまでどこかに就職する案、日本に一時的に帰って実家を手伝う案などが交錯した。新たに出店する案については、場所もあったのだが出店に要する費用をどうしても工面できなかった。今は景気も悪く、銀行もダメ、お金を貸してくれる人も確保出来なかった。
私の母曰く、今は景気が悪く、誰もお金を貸そうとしない。暫く日本に帰って家を手伝い、その実績を積んで家の取引のある銀行から借金が出来る様になるのを待ったらどうかと言われた。実家は「もつ亭志門」というもつ料理と海鮮料理のお店を出している。今は開店時の借金があるが、お店自体は順調で、いずれ借金を返済した際には融資も受けられるだろうということだ。
この一時帰国の案が一番いい様に思えた。銀行から資金が調達できるなら、一番安心だ。妙なしがらみを抱え込むこともない。しかし、どこかに就職する案もとりあえず探ることにした。どのみち9月までに進路を決めればいい。とはいえ、日本に帰るということを前提に諸々の準備を進めることにした。妻には長くて3年は実家の手伝いをすることになるだろうと説明した。
そんな折に、ナイジェリアでの通訳の仕事が入ったり、ローザンヌで手打ちうどんを出したいというスイス人が現れてきた。日本人旅行客向けの弁当は予測通りほとんどなかったが、イレギュラーで入ったイベントの仕事や、通訳、8月の閉店に伴うセールなどで夏場はそれなりに仕事ができた。
ローザンヌで手打ちうどんを出したいという依頼は、9月に2週間の予定で試験販売をしてみようと言うことになった。9月はこうして、前半がローザンヌでの試験販売、後半は工場の撤収で大変忙しい月となってしまった。この試験販売はローザンヌ・パレスホテルにある寿司レストランで行うこととなった。
ここでの仕事は、お世辞にもいい環境ではなかった。とにかく調理場は狭いし、麺調理に必要な設備もない。階下にあるホテルの調理場を使わせてもらうことが出来たので、それでなんとか凌げることが出来た。しかし設備が揃わない分手間が余計にかかり、毎日12時間以上の労働となる日々が続いた。
試験販売自体はうまくいったようだ。お客からの評判もいいと聞いた。何しろ、この話しを持ってきた社長が大喜びで、これからもうどんを扱いたいと申し出てきた。それもすぐにだ。これは予想外の展開で、当初は来年1月に開店予定のレストランでメニューに入れたいという話しだったのに、出来るなら既存のレストランにも早急に展開したいという事に加えて、スイスでも有数のデパートのマノールにも展開したいと言うことだった。これは確かにいい方向の予想外の展開ではあった。
これは日本の麺をスイスに紹介して行くには絶好のチャンスの様に思える。今まで全部独自でそれを展開しようと思っていたのだが、スイス社会に展開して行くのにはやはりスイス人のビジネスパートナーがいた方が早い。彼のコネクションとインフラを使えば、少なくとも数店規模で直ぐに展開が可能だし、私には出来ない事だった。ここは彼と手を組んで事業を進めるのが得策の様に思えた。
試験販売を終えて、いよいよ工場の整理に取りかかった。店じまいとは嫌なものだ。第一、それでお金が入るわけではない。手間もかかるし、廃棄処分になる材料や器具なども沢山出てきて、廃棄処理にもお金がかかる。予想以上の出費があった。そして全てを搬出し、掃除をして、空っぽになった工場を見たら、大変寂しい想いが襲ってきた。この工場で働いた5年の年月は何だったのだろうか。工場は空っぽ、心の中も空っぽ、今までの歳月も空っぽ、そんな空しさが襲って来た。
工場を空っぽにして、そして扉を開いて外に出る。もうここに戻ることはない。きっと、振り返っちゃいけないんだと思った。私に残された未来は、外に出て行くことだけだ。そして外には希望が待っている。「天は自ら助くる者を助く」サミュエル著「自助論」の中の一節。私の人生の指針の一つ。この言葉を噛みしめた。
ただ、正直言うとヨーロッパでの生活も多少飽きが来ていて、日本に帰りたいという本心も半分ある。今の自分に、ヨーロッパは特に未練がない。確かに生活水準といい、スイスはいい所だ。明らかに日本よりスイスの方が進んでいる。でも、日本は自分の故郷で、そこには自分が心底安寧でいられる文化、食べ物、習慣がある。
若い頃はさほど気にもならなかったのに、何故か齢を重ねた今日この頃、そうした自分のルーツみたいな環境が、実は一番いいんだ、というような気持ちが強くなっている。これは自分の幻想かもしれない。日本に住めば、自分がそこで嫌悪していた習慣や現実に再び直面するだろうということも容易に想像できる。やはり、どこの世界に住んでいても、楽あれば苦ありといったところなのだろうか。
私は一人っ子だから、いずれ日本の高川家財産を引き継ぐ事になる。別に相続放棄することも可能だろうが、それはちょっともったいない。とはいえ家族はスイスにいるし、子供たちはスイスで成長して自立していくのが一番だと思っている。私が日本に住むと言うことは、日本に単身赴任するという状態に等しい。現実は色々な環境で板挟み状態だ。もっとも、それはスイスに来る前から覚悟の事だったのだけれど、現実的に帰国が迫って来ると切実として感じるようになった。
今のところの考えは、とりあえず数ヶ月日本に帰って、日本においてのビジネスの可能性と、その下地造りをし、早めにスイスに戻ってローザンヌでのビジネス展開に労力をついやしてみようということだ。将来的には、一年の半分をスイスで、残りの半分を日本で暮らすことが出来たらいいなと思う。
なんて贅沢な目論見だろうと思う。でも、そうしたチャンスを与えられる日本人も少ない。望んでいてもチャンスを与えられない人も多いのだから、これを放棄すること自体が大変罪深いことの様にも思える。これはやらねばなるまい。成功するか失敗するかはわからないけれど、どちらにしても少ないチャンスを得てそれに挑戦した者の一つの足跡にはなるだろう。
結果はわからない。でも、今までの経験によると、何かに挑戦しているときが私にとって一番楽しい。夢は大きい方がいい。だから、自分の与えられた環境の中で、一番大きな夢を追いかけたい。何故ならそれが一番楽しいことで、それに失敗しても悔いはないからだ。やりたいことをやったのだから。
私は今までどちらかというと堅実派の様に自分で思っていたけれど、型にはまった人生に退屈を感じる性格といい、夢を追っている事の方が現実より好き、という性分といい、そんなことを加味して分析すると、本質は、実は勝負師気質なのかも知れない。