2009/07/10

臓器移植法改正について

衆議院で通過した臓器移植法改正法案が13日に採択される。この法案が通過すると、臓器移植が日本でも行われやすくなるという。反面、脳死を人の死と認める事に批判的な意見もある。脳死の定義においてはもはや蘇生はありえず、脳死した人は生命維持装置で脳以外の人体の機能的な動作は維持されている。しかし、脳は既に壊死しており、その人は考えることも、夢見ることも、意識を取り戻すことも二度とない。

脳死した人が蘇生したという話しもあるが、これは脳死判定が甘く、本来の脳死の定義に準じたものではなかったそうだ。脳死の定義では、蘇生はありえない、しかしその脳死を判定する医師が判定を誤ることはありえる。この臓器移植法改正がなされると、脳死判定の誤診による医療事故が起こる可能性が出る、ということも否めない。

臓器移植を待ちつつ、死んでいく患者も多々いる。現在の臓器移植法は、これらの人々を見殺しにしている。また、運良くアメリカで臓器移植が出来ても、その費用は莫大な額だ。一説によると、日本人が簡単にアメリカで臓器移植が出来ない様に、莫大な額を設定しているのだそうだ。しかし、これを日本は批判できないだろう。日本では実質的に臓器移植が禁止されているのだから。

脳死した人を見守っている家族も不安があるという。この臓器移植法が脳死を人の死としてしまうと、何年も見守っていた大切な人に、死を宣告されてしまう。そういう心理的なストレスもさることながら、死んだ人間をいつまでも生命機能維持させておくのは如何なものか、といった様な批判を受けないとも限らない。悪意ある陰口が家族を苦しめる、といったことも懸念される。

また、この法改正がきっかけとなって、脳死判定された患者への医療体制、医療保険の扱いが脳死患者を見守る家族に対して不利になって行くのではないか、という不安もあるだろう。植物人間となった人でも、生命維持がなされれば成長していく。確かに植物的な成長かも知れないが、それはその人なりの生き方をしているという見方も成り立つだろう。家族の愛を体で感じ、その人はやがて幸福のうちに天に召されるかも知れない。そうした人としての大切な行為は何よりも大切だし、尊重されなければならない。

この様な懸念や不安から、脳死患者を見守る人たちの側から法改正に反対する人たちがいるということは自然だと思う。こうした人たちの懸念や不安を十分に考慮する必要があり、法改正がこうした事の実現につながるような事になってはならない。

とはいえ、今回の法改正自体が、この不安や懸念を誘発しているわけではなく、あくまでも「きっかけ」の候補となる、ということだと思う。この議員立法が提出されてから4年も過ぎ、その間にも臓器移植を待ちつつ死んで行った人もいる。こうした現状を考えると、やはりこの臓器移植法改正は必要ではないかと考える。ただし、脳死患者を見守る家族に対する偏見を誘発するような風潮の防止や家族の心情を尊重した上での説明の徹底、生命維持に対する十分な保護の継続などの措置も同時に進められるべきと考える。

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