それに転機がやってきたようだ。はじまりは今年の春からの自分の仕事の業績悪化からだった。リーマンショックや新型インフルエンザなどの影響で、今まで続いていた仕事が軒並みキャンセルとなり、借りていた作業場の維持すら難しくなった。作業場を解約し、新たなる仕事を見つけざる得なくなってしまった。
これは明らかに事業の失敗だ。この決断を受け入れるのは大変な負担だった。しかも次の仕事もまだ見えていない。この先に深い霧がかかっている、道しるべもなく、もしかしたら行き止まりに断崖だけが待っているかもしれない。自分が情けなく思え、そして不安が襲った。
その時、この霧の中の道を歩む事が出来たのは、人間裸になってまで失うものなく、大切なことは今を歩む意思だと思ったことだ。富を積むこと、確かにそれは出来るに越したことはないが、その富を崩さなければならない時もある。富を積む時がいいことで、富を崩す時が悪いこと、そんな事は問題ではなく、今を精いっぱい生きていくこと、悪い結果に悔いを持たないこと。たとえ道半ばで倒れても、悔いのない人生だったと思えること、それが大切だと思った。
そしてやれることをやってきた。今年を振り返ると、今までの様にはいかなかったけれど、なんとか自分のできる仕事をこなして来たし、売り上げは減少したけれど、利益から言うと昨年を上回る利益となった。また、来年の仕事の道筋が、おぼろげにも見えてきた。深い霧は消えかかっている。
人の意見を受け入れることも大切だけれども、それで自分が揺らいでは何もならない。状況の悪い時は揺らぎやすいというのも身にしみた。特に自営になれば、保証は何もないのだから、いつもが背水の陣だ。そうした生き方に空恐ろしさを覚えたけれど、逆に身震いも感じた。生きていることを実感したのだ。厳しい時こそ、生きていることを実感するのかも知れない。
こうした時間を過ごして来たら、今の自分の生き方、考え方に迷いがなくなった。それが最上とはいえないかも知れないが、例え最上の選択が出来なかったにしても、自分自身でいられること、自分の道を歩むことの方が一番大切だ。もうこれから自分の道を逸れることもないだろうし、歩みを止めることもないだろう。それに、この道の指針は、自分を信じ、自分のできる事を精いっぱいやりとおす、という極めて単純なものなのだ。
四十にして迷わず、やっとその心境になってきた。
次には、天命を知る、だが、これはこれでだいぶ先になりそうだ。
あれ?
ReplyDeleteもう、五十だと思ってた。(笑)
そして、のりさんはもうすでに惑わずの心境で
この十年を走っていたのだとも 思っていた。
人間を表面的に判断することの難しさですね。
私も惑いの中で移住の生活をしていて、のりさんも
この結論を見出すために日本に一時帰国したのですね。
私はまだ結論を見出していませんが、
前を見てただひた走ることしか考えていません。
のりさんのように、迷いがなくなったとは到底言えません。
でも、おっしゃるように自分の道を進むために来たのですから
そのことをきちんと基本にしていくことが大切だと
再度考えさせられました。 また飲みましょう。
五十に近づいてはおりますが、もう少し間があります。笑
ReplyDelete今まで決断は多々あったのですが、やはり失敗は怖かったですし、周囲の批判にも敏感でした。
まぁ、我の強い方ですからね、それを抑える方に自分なりに気を使っていたというのもありますね、特に国籍関係の動きなんか。それも良かったのかなとかも思いますが、本当になんとかしなきゃいけないときは、自分の芯が試されるときで、それを克服するのは自分でしかない。自分で自分を助けていかなきゃならない。自分の人生に責任を負える他人なんていないです。
周りは確かに支えてくれるし、それに感謝もしていますけれど、それは自分自身が努力しているからですよね。そして、その道はやはり他人のものでもないし、自分で歩んでいかなくてはいけない。
確かに日本に来たのは、自分の失敗を確認するためだったかもしれません。でも、得る時もあれば、失う時もある、そこに意味を見るのは自分だけで、他人の風評は無意味だし、無意味に等しくほんの瞬間のものでしかない。
そうですね、失敗したとき、何かを失った時、自分を責める前に、自分を失う前に、自分のできる事を考える、自分を変えることを考える、そうした思考に移ったのかも知れません。
ただ、私の友人に天の声を聞いちゃった人がいて、天命を悟った人もいるんですが、私はまだ神の声が聞こえなくて、天命までわかりません。私の神様は許してくれたり、ほほ笑んだりしてくれるのですが、語ってはくれません。