2010/01/11

チェコに入る

高速道路は無料。ドイツのアウトバーン並の質だった。本には制限速度が110キロとあったが、制限速度の標識がなく、かなりばんばん車が走っている。
あとで知ったが、私の情報は古く、高速道路は今や130キロの制限速度でかつ有料。高速を走る場合は高速道路のステッカーを買ってフロントガラスにつけなければならないとのこと。でも、国境にはそんな看板もなく、あらゆる高速の入り口にもなかった。外国から短期で入る車は
実質無料と見た(無論検問があれば罰金を取られるだろうが)。恐らくEU加盟の後、交通規則が変わったのだろう、交通規則は変更になることもあるので、中欧に行く際は事前にWeb等でチェックが必要だ。

2010/01/10

アウシュビッツの入場門

ここをくぐり抜け、ひとたび収容所に入ったならば、決して生きてこの門を再びくぐることはなかった。
私たちは永遠にアウシュビッツを忘れてはならず、アウシュビッツのもたらした意味を問い続けなければならない。
政治家は平和を口にしつつ戦争を行う。平和のためだと。しかし、ここには戦争がもたらす現実が残酷なまでに止められているのだ。
平和主義がナチスを野放しにしたとの批判もあるが、それよりも戦争主義とその応酬が悲惨なまでの現実を生むことを忘れてはなるまい。
戦えば、今のアメリカのように、世界一豊かな国でさえ疲弊し、国民が死に、嘆き悲しむ人が出る。豊かさを守る為の戦いであったはずが、結局は貧困と破壊と惨劇だけをもたらすのだ。

この線路の終着が、人生の終着だった

まさにこの線路の後ろ側にガス室があったのだ。今は訪問客が道を歩いているが、その道はかつて死に向かう道だった。今も絶えずおかれ続ける花束が痛々しい。

2010/01/09

アウシュビッツ絶滅収容所記念碑 碑文

英語でこう書いてある。
For ever let this place be a cry of despair and a warning to humanity, where the Nazis murdered about one and a half million men, women, and children, mainly Jews from various countries of Europe.
Auschwitz-Birkenau
1940-1945
【高川訳】
ナチスが約百五十万人の、主にヨーロッパの様々な国々出身のユダヤ人の、男、女、子供たちを殺した地として、永遠にこの場所を絶望の嘆きと人間性の警鐘として止める。
アウシュビッツービルケナウ
1940-1945

破壊されたガス室の跡


ナチスが証拠隠滅のため破壊した。階段を下りるとまず更衣室があって、その向こうで左に広がる跡がシャワー室。すなわち処刑室。さらにその向こうが焼却場。

2010/01/07

煉瓦造りの収容棟

収容所に引き込まれた線路を中心として、左側にはレンガの収容棟、右側には木造の収容棟が建てられた。レンガの収容棟が最初に建てられ、建設が間に合わなくなって木造に切り替わったそうだ。

イスラエル人の見学

イスラエルから学生達が修学旅行にここを訪れる。座っているのは元集団便所。丸い穴しか開いていない。

2010/01/05

木製の収容棟

一つのバラックに400人ほど詰め込まれた。食事は成人の基礎代謝も賄われない粗末なもので、結局餓死か、病死か、処刑が待っていた。収容棟に入れられたのは、強制労働に従事する男が主で、女、子供、老人、障害者はガス室に直行した。しかし、ガス室ですぐに死んだ方が楽だ
ったかも知れない。食事もろくになく強制労働させられ、骨と皮になって、挙げ句に餓死や病死、あるいは処刑では、そちらの方が酷い。

ビルケナウ第二収容所

こちらで大量のユダヤ人虐殺が行われた。300棟以上の収容棟を有した広大な収容所だった。収容所の門をくぐると、この様なプラットホームに列車が到着した。7−8割方の囚人は、収容棟に入ることなく、この線路の先に設けられたガス室に直行された。

新年に思う事

あけましておめでとうございます。
ちょっと、遅いごあいさつです。
お正月は鹿教湯温泉で親と過ごしていました。充電はばっちりですが、多少充電しすぎてしまった様に思います。
長野のおいしいといわれる蕎麦を食べ歩いたのですが、いまいち自分の求めているものと違いを感じました。こればかりは好みの違いもあるので何とも言えませんね。
昨年はようやく惑わずの境地に達したと書きましたが、かといってうかつに動く事のないように、一歩一歩自分の足元を見つめながら歩んで行きたいと思います。
今年の年末も感謝の念で迎えられる事を願って。