2010/03/29

江戸っ子ってもともと大阪商人やんけっ!

馬廻り役という武士の役職があって、何だと思って調べたら、現代の軍階級でいう下級士官なんだそうだ。馬に乗る事を許された武士。下級とはいえ、馬に乗れる武士は上級武士(上士)のうちに入っていた。上の下といったところ。

下士官は「徒士目付」で、徒士とか足軽とかが一兵卒。時代劇で出て来る同心という人達と同類項。東京の御徒町って、この徒士の町だったようだ。すなわち下級武士の住んだ町。同心の人達が住んだのが八丁堀という所だったそうで、御徒町は八丁堀とまあまあ近い。いわゆる下町エリアの中、なかなかうなずける。

武士にも上士、下士があってこの差は歴然としていたそうだ。今でも軍隊では、士官と兵卒では雲泥の差がある。軍隊は階級社会だし、こうした江戸時代からの封建社会の序列を受け継いでいても不思議ではない。

江戸時代、圧倒的に多かったのが下級武士。いわゆる一兵卒。例えば江戸時代の幕府直轄の武士、すなわち直参を8万騎と称していたそうだが、そのうち、士官に相当する武士の数はわずか5千。あとは下級武士だった。この人たちの年収は低かった。 映画「たそがれ清兵衛」でも主人公、苦労している。

武士がそんなだから、武士階級の下の農民に至っては、それは悲惨な状況だったろうと思ったら、どうやら違うらしい。年貢は四公六民といわれ、4割もっていかれたと公式にはなっているが、この根拠となる算定が江戸時代初期などに行われたもので、江戸時代の実際の税率は28%程度だったとか。農民の暮らしは時代劇の様な過酷なものでもなかったらしい。下級武士と農民とは同じような経済的状況にあったようだ。

因みに、士農工商の階級の工商には年貢がなかった。当時は農本制だったし、この階級の人口がとるに足らなかったというのもあるのだろ。しかし江戸文化などは町民文化と言われるし、そんな彼らが基本的に無税だったというのは大変興味深い。江戸は、タックスヘブンだった。なんか世界の最先端を行っている。

江戸と言うのは当時、世界的にも大都市だったそうだ。その人口の多くが、実は江戸初期に 都市整備の一環として主に畿内、特に堺、大坂の商工業者が幕府により強制的に移住させられたことによっている。江戸っ子って、もともと大阪商人やんけっ!

そしてこれを端緒として、その後全国各地から江戸へと移り住む住人が 急増して世界でも屈指の大都市へと変貌して行ったのだそうだ。江戸は移住者の町だったのね。

江戸っ子という言葉が出来たのは、そうした移住者がおよそ200年程の年月の中で、保守層を形成していき、経済的問題から江戸に来る、貧困層の新しい移民を蔑むようになってからだそうだ。彼らは江戸っ子にとって野暮だった。今でも東京で成功すると、例え上京して来た人でも、新しい上京者を田舎もんと笑ったりするから、この江戸時代からの伝統は変わっていない。

さらには文明開化となり、東京と改称した江戸に薩長の田舎者が大挙してやってきた。ここに至ってはこれに対抗して、もともといた江戸の町民と旗本、御家人らが合流し、守旧派による江戸文化の確立がなされたのだそうだ。

官憲がよく言う言葉に「おい、こらっ」があるけれど、これは薩摩方言でもともと「ちょっと、君」くらいなもんだったそうだ。方言も時として、東京で悪役となる。

2 comments:

  1. お久しぶりです。
    私もあまり詳しいことは知らないのですが、江戸時代、特に天領の農民は比較的裕福だったとのことです。

    これが外様になると、一部の藩を除きかなり厳しかったようだ、というのを本で読んだことがあります。

    私のいる静岡は天領でした。

    ところで私が以前、練馬に住んでいた頃、
    東京にいます。
    と言ったら、
    コロコロコロと笑われ、

    あそこも東京だったわねえ・・・。

    と言われたことがあります。
    ぜんぜん嫌味ではなかったのですが、その方はいわゆるチャキチャキの江戸っ子、その上三味線職人の娘さんでした(^^)

    ReplyDelete
  2. こちらこそ、お久しぶりです

    練馬は江戸ではなかったみたいですね。こんな記述をみつけました。

    「生活レベルは高くないものの、練馬地区は均質化した平和な農村として幕末までいたる。」

    練馬区の地区が東京市に入ったのが昭和7年で、板橋区の中に組み込まれていました。練馬地区の人口が少なかったからです。この時の練馬地区はまだ農村が多く、大泉あたりは板橋区大泉村だったそうです。

    練馬区となったのは昭和22年。かなり新しいですね。ところで、練馬区にはまだ農家が残っているとか・・・。笑

    あっ、私も笑ってしまった。

    ReplyDelete