8月5日、晴れ。午前6時半起床。7時に朝食を取り、早速旧市街散策に出発。クラクフは歴史のある町で、昔はポーランド王国の首都として栄えたのだそうだ。その頃は、ボヘミアのプラハ、オーストリアのウィーンと並ぶ中央ヨーロッパの文化の中心地だったとの事。
王の住んだヴァヴェル城はとても広くて荘厳だった。旧市街の中央市場広場は中世から続く広場の規模としてはヨーロッパ最大とのこと。また、旧市街の家並みは中世の雰囲気を今も漂わせている。ヤギェウォ大学は中欧のカレル大学(プラハ)に次ぐ歴史を持ち、コペルニクスが学んでいる。また前法王ヨハネ・パウロ2世の母校でもある。この町が昔ながらの姿を止めているのは、第二次大戦の戦禍から奇跡的にも免れたからだ。しかし、皮肉にもドイツ軍の司令部がここに置かれていたから免れることが出来たのだとか。
いずれにしても、この歴史的な町が残されたのは素晴らしい。クラクフは日本で言えば京都に値するポーランドの古都だ。世界遺産にも登録されている。訪れる価値は十分にある。また、ドイツ軍の司令部があったことから、もう一つ負の遺産がここにはあって、その負の遺産を訪ねるのも、過去の悲劇を忘れないためにも価値がある。それはクラクフから西に80キロ離れた所に設けられた「アウシュビッツ絶滅収容所」だ。
ポーランドを侵略したドイツはクラクフにゲットーを設け、ポーランド中のユダヤ人を集め、その狭いゲットーに隔離した。その後ゲットーからも追い出し、クラクフ郊外に強制収容所を設け、働けるものはそこに入れ強制労働させた。老人、障害者、婦女子はアウシュビッツに送られ、殺された。このクラクフとその強制収容所を舞台に、1100名のユダヤ人の命を救った実話「シンドラーのリスト」が生まれたのだ。クラクフの収容所は強制労働を目的とした収容所だったので、ここでの大量虐殺はなかったが、囚人の虐殺は日常で、ユダヤ人の囚人は常に死と隣り合わせだったのだそうだ。
アウシュビッツという名前はドイツがポーランドを侵略した後につけた、ドイツ語の地名で、現在アウシュビッツという所はポーランドにはない。今はそこにあった絶滅収容所(英語ではDeath Camp)の名前にそれが止められているだけだ。アウシュビッツ絶滅収容所はオシフェンチムという町にある。
アウシュビッツという名前をポーランドの地図で探しても、なかなか探し出せないのはそこら辺に原因がある。また、このオシフェンチムという名前もポーランド語で綴りが「Oswiecim」なので、ローマ字的な感覚で発音から探そうとしてもなかなか出来るものではない。これはクラクフにも言えて、「Krakow」という綴りからは、なかなかクラクフと読めない。私はこれで、クラクフ探しにずいぶん時間を取った。
オシフィエンチムは小さな町だ。アウシュビッツ絶滅収容所はこの町の重要な観光収入源になっているかの様だ。現在この収容所はアウシュビッツ博物館となっていて、実質的に33ズオチの入場料を取られる。アウシュビッツ博物館は個人訪問者の場合、必ず案内ツアーに参加しなくてはならなくなっていて、その費用に33ズオチがかかるのだ。このツアーは約2キロ離れた第二収容所の見学も併せて3時間ほどかかる。よって、アウシュビッツ博物館に午後3時までに行かなければ、博物館に入場できない様になっているから注意が必要だ(2009年8月現在、Webによると8−9月の間に多数訪れる入館者への臨時対策とのこと)。
案内ツアーだが、残念ながら日本語がない。日本語のツアーが欲しければ、別途ガイドを雇う必要がある。私のような気ままな日本人訪問者には英語のツアーしか選択出来ないのが残念な所だ。英語がわかればまだしも、それも難儀な場合、この33ズオチは無意味に痛い。因みに駐車料金は1時間3ズオチだった。どうも観光地料金で駐車料をぶんどっている。といっても、1時間100円の駐車料金が日本で高いとはいえないけれど。
アウシュビッツをインターネットで調べれば、沢山の情報が出てくる。だからアウシュビッツ絶滅収容所の解説はそちらにお任せしたい。行ってみて、初めて実感するものがあるので、それを綴ってみたい。このアウシュビッツ絶滅収容所では、150万人が虐殺されたと推定されている。しかし、その数がどんなものなのかは容易に想像できない。最盛期には1日に何千人もの囚人が殺された。そんなに殺し続ける事が出来るのか、あまりに想像を絶するので、こうした数字だけでは単なる数値が頭を通過するだけだ。
実際に見学した、膨大な頭髪、靴、鞄などを見て、少し気分が悪くなった。囚人から刈り取った髪の毛で織物を作り、ドイツ軍の軍服などに利用していたんだそうだ。収容所に送る際、気休めに名前や住所を書かせた鞄は二度と持ち主に返されることはなかった。藁を敷いた蚤だらけのベット。ガス室で殺されるのならまだしも、餓死させられたり、立たせ続けて死に至らしめるという「立殺し」などの酷い処刑も行われていた。彼らは家畜以下の存在だった。
アウシュビッツ第二収容所はビルケナウと呼ばれていた。実はここが大量虐殺の本拠地で、映画などで紹介されるアウシュビッツはここの事をいっている。ここは広大だ。当時は300ものバラックが建てられて、1棟に400人位押し込められたそうだ。ざっと計算しても1万2千人は収容出来る事になっている。死の門と呼ばれる収容所の入り口から入った囚人は、二度とそこから出ることは出来なかった。
当時ヨーロッパには約9百万人のユダヤ人がいた。このユダヤ人を収容するのに、たった1万人そこそこの収容所が何の役に立つだろう。とにかく送られて来る囚人を迅速に殺し続けなければ収容所はパンクしてしまう。そこで殺人ガスを使った大量殺戮方法が開発されたのだった。アウシュビッツに送られた囚人達の7−8割は、列車から降ろされてすぐにガス室に送られた。そのため、これら囚人の記録もない。記録を取っている余裕もなく殺し続けたのだ。よって正確な処刑者の数も把握出来なくて、150万人というのは推定でしかない。
ある人口調査によると、第二次大戦を通してユダヤ人の人口が500万人強減っている。ユダヤ人協会の見解では550万人以上が戦争の犠牲になったと主張している。これはアウシュビッツだけではない数だが、戦争を通して殺されたユダヤ人の数としては妥当な所かも知れない。
死の門をくぐってユダヤ人を満載にした家畜用の貨車が到着すると、追い立てられるように奥に伸びた線路の終端まで歩かされる。そして線路の終端の先には、ガス室があった。こうして死んだ人はまだ幸いだったかも知れない。なまじ労働に耐えられる体をしていると、バラックに送られ強制労働に従事されられる。働かせながら殺すのだ。人間の基礎代謝にも満たないカロリーしか与えられず、骨と皮になり、動けなくなったらガス室送り。その間早くて2ヶ月、半年持てば長い方だという。こちらの方が酷い。
私が見学している間、複数のユダヤ人の見学グループを見た。イスラエルの国旗を持っていた。イスラエルの国旗は、ナチスから強制的につけさせられたユダヤ人差別の紋章と同じだ。イスラエルの学生達は修学旅行でアウシュビッツを訪れるのだそうだ。同胞がこの様な仕打ちを受けた所で、彼らは何を思うのだろう。
ヒトラーは狂気の人だった。そう片づけるのは簡単すぎる。ユダヤ人を迫害したのはヒトラーが初めてではない。確かにヒトラーの虐殺がユダヤ人迫害の頂点であったのは否めない。しかし、その素地をヨーロッパはずっと暖め続けていたのだ。このユダヤ人虐殺の悲劇は、ある日突然起きた類のものではない。ヨーロッパでユダヤ人は差別され、社会の最下層に押し込められていた。スイスでも教えられているが、近世に至るまで差別された最下層には二つがあって、ユダヤ人と死刑執行吏だという。ヨーロッパ人の心の片隅には、異教徒たるユダヤ人に対する憎しみや蔑みがあった。私は今でも、それもスイスでその片鱗を垣間見ることがある。
こうしたことは規模の大小の差こそあれ、ドイツに限った事ではない。日本でも関東大震災の時に在日朝鮮人が差別感情から生まれたデマが発端となって虐殺された。どこでも起こりうる話しなのだ。しっかりとこうした差別と虐殺の歴史を受け止め、伝えて行かなければ、明日、自分たちが被害者に、あるいは加害者になっている、そんなことが現実にありうるのだ。アウシュビッツは遠い物語ではない。人の心の中にはアウシュビッツが隠れ潜んでいる。
とても遠かったけれど、アウシュビッツを見学出来て良かったと思った。最近、ユダヤ人虐殺などなかったという歴史修正主義者の声を聞くが、行けば実感できる。それは間違いなくあったのだ。それを圧倒的なスケールで物語っている。アウシュビッツは二度と繰り返してはならない、そして教訓に満ちた場所だ。
流石に見学を終えると気が重い。もう家に帰って寝たい気分になった。しかし、オシフィエンチムに泊まる気も起きなかった。オシフィエンチムから80キロほど南下すると、そこはチェコ国境だ。なるべくプラハの近くまで走っておきたかった。結局チェコに入り、ブルノというチェコ第二の都市まで走った。チェコは西部のボヘミヤと東部のモラビアという地方に分けられるが、ブルノはモラビア地方の中心都市だ。
ブルノ市街の中心地にホテルを見つけた。アヴィオン(Avion)というホテルで、朝食付き900コルナだった。ただしシャワーがついているが、トイレが共同。1コルナは約5.5円、よってここも1泊5000円程の宿だった。夜は自家製ビールが売りのレストラン・ペガス(Pegas)でビールを楽しんだ。1杯が28コルナ。1杯150円ちょっとで飲める計算になる。ビールが安い! なお、ペガスも宿泊ができる。
ほろ酔い加減でブルノ市街を夜の散歩としゃれ込んだ。落ち着いた雰囲気があってなかなかいい。しかも治安もいい。ブルノの町が気に入った。駅前のお店でチェコ産のワインを買う。帰って飲むのが楽しみだ。オシフィエンチムからブルノまでは280キロ程で、その間ポーランドの一部とチェコでは高速を走った。料金はかからなかった。今日の走行距離364キロ。
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