2011/03/10

人はおおむね自分が思うほどに幸せでも不幸せでもない

肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。「ジャン・クリストフ」

ふーん。

確かに生きることに飽きたら終わりかもね。幸せや不幸せの基準は自分の中にあるものだから、心の持ち方で全てを幸せにすることも出来るんじゃないかな。その逆もあるわけど。
一切空の仏教的思想からすれば、人は幸せでも不幸せでもない、というのは言えている。

幸せは移ろいやすく、色あせやすい。幸せはいつしか幸せではなく、当たり前な事、退屈な事に変わってしまう。不幸せは不満や苦しみ、痛みとなって心の中に、静かに沈澱して行く。色あせはしても、それを消す事は出来ない。幸せは溜まる事がないのに、不幸せは溜まっていく。

幸せからは学習がない。不幸せからは学習が生まれる。幸せからは望みは生まれない。不幸せからは望みが生まれる。幸せは飽きて来る。不幸せに飽きることはない。不幸せであることは、幸せ(な心)になるということだ。それでは、不幸せは幸せの一部なのだろうか。

「希望があるから私は幸せ」と思う人は、今が不幸せな環境である事を心のどこかで知っている。

昨日、アルプスの見えるアルプを散歩した。実に幸せな気分だったが、この幸せをどれだけ実感しているのだろうと思った。それは、指からすり落ちていく砂にも似て、ほんの束の間なのだ。私は幸せを求めて生きている訳ではないと思った。何故なら、幸せにしがみつく事は、まさに煩悩の成せる技だから。幸せでも、不幸せでも、己の魂が燃えてこそ、そこに自分の生がある。幸せや不幸せは、それを囁いている。

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