2011/03/21

日本のトップは現場に行くべき。それを阻む者は保身目的でしかない。トップこそが現場を鼓舞出来る。

菅総理が現場の応援をしようとすると、どうやら官僚や官僚に鼻薬を効かされた政治家が待ったをかけるらしい。
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210321012.html

現場は誰が来てもかまわないのだ、今必死に作業をしているのだから。それを邪魔しない様にお膳立てが出来れば、首相が来ようとかまったものじゃない。その首相がパフォーマンスでも、消防用のホースを握って放水の手伝いをしたらいい。現場は大歓迎だろう。俺達作業員と同じ、地道でしかも苦しくて、そして泥にまみれる作業をしていると。

ところがだ、何が首相が行くと迷惑をかけるだ。そうやって、首相を権威の象徴に祭り上げているだけではないか。権威の象徴に祭り上げて、その者を身動きできない状況にさせて、不都合が起きれば非難の材料にする。こいつらは所詮首相を自分の保身のための操り人形くらいにしか思っていない。

福島原発の事故が日本の危機であったならば、首相は現場に行くべきだ。反対勢力は批判するだろうが、一般国民は絶対にそうは思わない。だって、首相だって、一国民だろう。裸になったら区別のつかない人間だろう。国民の信頼を受けたこそ、総理になったのは間違いない。しかし、国民はだからと言って権威をふりかざして欲しいとはつゆほども思っていない。

首相は現場に行くべきだ。そして、恐らく官僚であろう側近の制止もなど完全に無視して、作業員を励まし、その作業を手伝うだけのふりでもいい、そうしたパフォーマンスを見せて欲しい。それが本当の鼓舞につながるだろう。しかも、その仕事はトップにしか出来ない。東電の社長はその気もないらしい。であれば、首相がやって欲しい。

玉音放送もいいかも知れないが、この期になったなれば、陛下ご自身が、例え御忍びでも現場に行って手を差し伸べる、それが必要なのではあるまいか。それが不可能なことは想像に難くないが、であれば陛下の意思を継ぐという形でもかまわないから、日本の指導者がそうするべきなのだ。

中世の為政者たちは、自らが剣を取り、困難の先頭に立っている。これは単に前時代的だったという理由ではない。それがリーダーシップというものだったからだ。リーダーシップの取れない者は、いつまでもその地位に止まる事は出来ない。

現場作業員は単なるトカゲのしっぽではない。家族もあれば、自分の身も可愛い。そんな一庶民であって、そして同じ血を流した人間だ。東電は自社の保身のため、地域住民を無視する事を続けてきた。彼らにとって社の存続が一番重要なのだ。それはこの資本主義社会にとって非難できない事なんだろうと思う。

しかし、国民の命を守るべき政府は違った使命があるはずだ。人の命は皆同じという視線に立った、そして社会を守っていく使命だ。これは東電には出来ない。もちろん専門知識を持った専門家にも出来ない尊い使命だ。

技術者のはしくれである私は、専門家はその分野では自尊心もあるし、譲れない主張もするだろうと想像できる。この石頭連中を統率するのは並大抵ではないとも思う。しかし、技術者はその誇りにかけて嘘は主張しない。そして誇りを持つ者ほどきちっと倫理観を持っており、それを逸脱できない。科学的に立証できない事象には決して賛同出来ないのだ。それをしたら、自分は科学者でもなく技術者でもなくなってしまうから。

菅首相も理系出身なら、その自負を持っている事だろう。自分も科学を修習した者の一人として。であれば、、己が科学的根拠を基にして、現場に赴き、現場を鼓舞する。これこそが最良の対応だ。

官僚が文系の塊だとは言わないけれど、保身に走るあまり民主主義を無視した権威構造をでっち上げ、それを盾に自分だけいい思いをしようとしたならば、私は絶対にそれに賛同は出来ない。

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