http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110316/t10014717841000.html
天皇陛下に対する思いは複雑なものがあるが、私はことさら天皇制の廃止を求める者ではない。歴史的な背景から、これの廃止を強行する事の必要性まで感じない、ということ。しかし、ことさら尊敬もしていない。普段はその存在を全く忘れている。正直、どうでもいいのだ。
現状では、日本は立憲君主制にカテゴライズされ、憲法が象徴だとか言っているけれど、天皇は君主に間違いない。しかし、他国と違うのは、この君主は長い歴史の中で、実権を持つことをほとんど許されておらず、単に祭り上げられているだけ。その為、天皇のやることは代々が神主の大親分だ。
その為か、天皇陛下の仁徳だけはものすごいものがある。日々、日本国と日本人の為に生活することを強いられている訳だから、この人は無私の象徴でもある。普通の人間がなかなか務まる地位ではないだろう。天皇家は歴史的に代々それを強いられ、DNA的にその責務をこなせる様に進化しているのかも知れない。
そんな風にシニカルに考えている私が、今回の玉音放送を聞いたら、何故か目頭が熱くなった。まずこれは、このお方の仁徳に帰するものと思う。このお方の仁徳は、恐らく日本国民の誰もに胸を打たす力があるのではないだろうか。確信があるのだが、多くの人が目頭を熱くしたと思う。
何の権限もない(世界からみれば)君主、(憲法上では)象徴ではあるけれど、天皇は日本の絆をきちっとまとめてくれる。そして強めてくれる。被災者はどれだけ励まされただろうか。救援に、復旧に疲弊した人々にどれだけの励ましを与えただろうか。私たちは、日本人としてこれからも助け合ってがんばっていこう、そんな気持ちを注入してくれた。日本の象徴として身を捨てて奉仕している天皇だからこそ出来た仕事ではないだろうか。
ひとえにこれは、天皇の無私の仁徳に他ならないと思う。平成の玉音放送を聞いた後の感想は、その無私の姿に少しく尊敬を覚えるようになったという事。
そんな心境の変化を経て、新たに終戦の詔勅を読んでみると、昭和天皇もなかなか無私の人だったんだなぁ、と感心した。もっとも、これを本人が作った訳ではないのだろうけれど、それでもそれを読むということは、全く同意しての事だろう。
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm
これを実際に聞いて、涙した人の気持ちが少しわかった。
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